2016/02/26(金)松尾流「人生の歩き方」 #9




 ついにその時が来た。
 場所は、建設途中のままになっているビルの屋上である。
 そこまで、守りは堅くない。
 とうてい組織的な動きとは呼べない。
 やはり、内部分裂が既に始まっている。
 これと言った障害もなく、屋上にたどり着いた。
 覚悟を決める。



 俺は見た。俺の相手、清水優花を。




 しかし、俺は聞かずにいれなかった。
「何でこんなことをしたんだ?」
「だって、お父さんが倒れたら、みんながバラバラになっていくんだもん」
「それで、どうしてこんなことをすることになるんだ」
「もし、この取引が成功したとしたら、みんな帰ってきてくれるかもしれないよ」
「そんなことはない」
「どうして? 見直してくれるかもしれないよ」
「たとえそうだとしても、俺は止めないといけない」
「……」
 優花が俯く。
 が、次の瞬間。俺に向かって駆け出してくる。


 取引の時刻まで後10分。
 

「もう、やめないか」
「いやだよ」
 武器を失ってさえ、戦うことをやめようとしない。
 それを見て数瞬考え、俺は


 ――信じることにした――


 優花が滑るように向かってくる。
 対する俺は構えをとりせず、感情の籠もらない目で優花を見つめていた。
 優花の打撃が届こうとした瞬間、
 俺は薄く口元で笑った。
 そして、ついに優花の拳がとど――
「っ……!」
 ――かなかった。
優花の拳は、俺に触れるか触れないかのところで止まっていた。
 俺はその腕をそのまま引っ張り、優花を胸に抱き留める。
「え……」
 その身体は、女の子らしい柔らかさを持っていた。
 驚きの声を上げる優花を無視して、話し始める。
「俺のじいちゃんも、こういう仕事をしていたのは、知ってるだろ?」
 優花はまだ状況がつかめていないのか、きょとんとしたまま反応しない。
 気にせず、言葉を重ねる。
「そのじいちゃんが死ぬ間際にこういったんだ」
 俺は、そのころのことを脳裏に浮かべつつ、
「『自分を大事にして、自分を信じるんだ』って」
 優花が不意に俺を見上げた。
 その目には、もう先ほどまでの激情ではなく、かすかに安堵が表れていた。
「俺はこの言葉の意味を『自分の心を大切にして、自分の選択を信じろ』ということだと思っているんだ。だから、俺は君が本当にこんなことをしたくないんじゃないかと思った時、それを信じた。」
「ひどいよ……。本当は――」
 その言葉を遮るように言う。
「最初から、勝つ気なんてなかったんだろ?」
 図星を突かれてあたふたする優花。
「反省しろよ」
 その一言で、静かになる。
「……うん」
 と、かろうじて声が聞き取れた。
 会話がとぎれ、沈黙が流れる。


 ふと、優花の顔が赤くなっていることに気づいた。
「ん? 熱でもあるのか?」
「ぜ、全然そんなことないよ!」
 と、いきなりバタバタと慌て出す。
 そこにいたって、ようやく気づく。ずっと優花を抱いたままだったのだ。
 優花を腕から解放し、落ち着かせようとする。
 不意に、背後に気配。
 咄嗟に優花を背中にかばい、振り返る。
 が、相手を認めると全身から力を抜いた。
 そこにいたのは、頭の上から下まで真っ黒の服を着た二人の人間だった。その風体はまるで忍者のようである。だが、その服には現代科学技術の粋が詰め込まれたものであることを俺は知っていた。
 黒服の小さい方が言う。
「幸ちゃん。見たわよ?」
 暗闇で表情は見えないが、悪戯な笑みを浮かべているであろうことがありありと分かる。
 対して、大きい方は無言。小さい方だけが楽しそうに話す状態が続く。
「全く。幸ちゃんも隅に置けないわね。いつの間にかこんなかわいい子を捕まえてるなんて」「そんなんじゃないって」
「そう? でも、あんな風に抱いたりして、けっこう雰囲気良さそうに見えたわよ?」
 そこで、何か思いついたのか驚いたかのような表情で口に手を当てて、
「まさか、セクハラ?」
「何でそんなことになるんだ」
 即、否定する。
 どこからそんなことが思いつくのだろうか、この人にはいつも呆れさせられる。
 やっと、場の状況を理解できていたなかった優花が疑問を口にした。
「この人たちって誰かな?」
「ん? あぁ、俺の両親」
「え!」
 優花は信じられないといった表情で二人をまじまじと見ている。
「そうよ」
「でも、若そうだよ」
「フフン♪ ありがと」
 そう言う母親はうれしそうに見える。
「で、何でここにいるのさ?」
 両親はいつも世界中で仕事をしているはずで、こんなところにいるのはおかしい。
「それがね……」
 母親が答える。
「私たちは中国の怪しいグループを追っていたの。ガードが堅くて、しっぽがなかなか捕まえられなかったんだけどね。で、最近、清水組の内部混乱でこの情報が漏れてきたのよ。だから、現場を押さえに来た訳なんだけど……」
 と、言いながら頭をかいて、
「いざ来てみれば、ほとんどの守衛が倒されてるし、そのせいでグループもしっぽ巻いて逃げたみたい。ちょっとやりすぎよ」
 少し理不尽な非難される。


 「無駄骨だったわ」などと言いながら、体を伸ばしていた母親だったが、突然真剣な眼差しを優花に向ける。
「で、そちらが清水優花さんでよろしいのかしら?」
「はい」
「今回の事件はあなたが計画したこと?」
「……はい」
 どうやら、この事件の全貌を完全に把握している訳ではないが、それなりに見当がついていたのだろう。確認作業をしているという感じであった。
 大体のことを聞き終わると、母親は少し厳しい顔をして。
「あなたの気持ちも分かるけど、人に迷惑をかけちゃダメよ。それに、」
 そこで一旦区切る。
「それに、こんなことをするよりも、まず、お父さんのそばにいなさいね」
 そう言った母親は俺にも滅多に見せない優しい顔をしていた。
 と、そこで初めて父親が口を開いた。
「もう夜も遅いから、幸介。清水さんを家まで送りなさい」
 相変わらず太く通る声だと感心しながらも頷く。

 別れる時、母親がにやりと笑って、「うちの幸ちゃんをよろしくね」 と言っていたが、どう言うつもりなのだろう。





 二人で夜道を歩く。
 ある程度の距離を置いて外灯が立っているので、自分の影が前や後ろに刻々と姿を変えて伸びている。あれからというもの、二人の間には沈黙が流れ続けていた。優花が柄になく深刻そうな表情をしているのでただ単に話し出しづらいだけだ。
 と、その沈黙を破るものがあった。
「ごめんね」
 優花である。
 いきなりの謝罪の言葉であったが、しっかりと頷いて答える。
「気にするな」
「でも……」
 納得がいかないという顔をする優花。
「私のわがままで、迷惑かけちゃって、それに私の家のこと、今まで黙っててごめんね」
「気にするなって」
 優花が突然立ち止まる。
 気づいて、振り返ってみると、既に優香は泣き始めていた。
「おい!? どうかしたのか?」 
「ううん。……っく、なんでもないよ。ただ、うれしかっただけなの」
 瞳からは涙がこぼれ落ち、外灯のぼんやりとした明るさの中できらりと光った。


 優花を泣きやんだのはそれからしばらく経ってからだった。
 どういうことなのか話を聞く。
「私ね。小学生の頃、友達を家に呼んだことがあったの」
 そのころは、まだ自分の家の異質さというものに気がついていなかったのだろう。
 同じような境遇である自分なので大体の察しはつく。これ以上は、話させまい。
「だから、気にするな。俺だって、同じようなもんだから」
 大きな屋敷というものは、それだけでどこか近寄りがたい雰囲気がするのだろうか。生まれた時から住んでいる自分には分からないが、多分そんなところだろうと思っている。
 その上、ずらりと居並ぶ怖そうな男達がいるとなると、変な家だとか怖い家だとか言う印象を持たれるし、そのことを親に話したとすれば、どんなことになるかは火を見るより明らかだった。
「俺の家には佳織しか呼んだことがないかな。あんまり家のことを知られるのが嫌だったし」
 そう言って、考える。
 家が家だけに、人を呼ぶようなことは許されなかった。それに、他の奴は呼ぶような気がしなかったのだが、なぜか佳織だけは違った。
 だが、今はそんなことを考えている時ではない。
「私も早くそんな友達が欲しかったな」
「でも、いいじゃないか。もう出来たんだし」
「……そうかな」
 曖昧に答える優花だったが、その顔には紛れもないうれしさが滲み出ていた。
 いつしか、いつもの交差点のところまで来ている。
「ここからだとどのくらいなんだ?」
 何気なく聞く。
「10分ぐらいかな」
「へぇ、案外近いもんだな」
 清水組の本家があるところは、関心がある訳でもないのに地域住民に知られているようだが、それが意外に近いと言うことに少し驚きを感じた。
 日常のすぐ近くに知らないものが潜んでいると言うことは良くある。
 いつもはまっすぐ行くところを、優花が帰る道の方へ入っていく。
 が、さっきのような沈黙はない。
 冗談を交えながら、色々なことを話し続ける。こんなに楽しそうにしている優花を俺は初めて見たような気がした。いつもどこか押さえていた部分があったのだろう。
 それから家に着くまでの数分間、優花はひたすら話し続けた。

 暗闇の中に堂々と構えられた門。
 それは固く閉ざされていて、何者も通さないという意志があるかのように感じられる。左右に続いているはずの壁は闇に沈んでいて見えない。
 こここそが優花の家。もとい、清水組の本家である。
 門の前に着いたのが10分ほど前。それから、なぜか優花は俺に門の前に残るように言って、中に入ったきりだ。その間、幸介は先ほど心に引っかかったものについて考えていた。
 佳織についてである。 
 なぜなのだろう。あのころ俺は佳織をどう思っていたのだろうか。正直なところ、そのころの自分が何を考えて行動していたのかと言うことを俺は全く覚えていない。
 しかし、佳織は違うのだ。彼女はあの頃の気持ちを蘇らせ、なおかつ俺を好きだと言ってくれる。その気持ちは素直にうれしかった。
 しかし、どうしてもあのころを俺には思い出すことが出来ない。俺はどうしたらいいのだろうか。ふと、自分が過去のことしか考えていないことに気づく。今の俺がどう考えているのかを全く考えていなかった。
 しかし、あのころはまだ自分の立場というものを知らなかったのだ。それに、佳織は俺の裏の顔を知らない。
 しかし――
 逆接と逆接が繰り返される思考の中に俺は沈んでいく……。
がたり、という目の前の門から音で現実に戻された。
「おまたせ」
 門の向こう側から優花の声が聞こえる。
「ん、別に構わないが……」
 長いこと物思いに耽っていたので、うまく対処することが出来ない。
 気を取り直して聞く。
「で、何で待たせてんだ?」
 だが、門の向こうから反応はない。閂を抜く音が聞こえ、続いて音もなく門が開き始める。
 ゆっくりとした速度で開ききった門の奥には少女がいた。
 小柄な身体。顔立ちは整っていて、肌は月明かりに照らされて白磁のように白く見える。その身を包んでいるのは薄緑色の和服。それだけであるならば、さながら人形のように見えたのかもしれない。が、短く切りそろえられた輝く髪の毛が、逆に豊かな生命感を感じさせる。
 そこまできてやっとその少女が優花であると言う実感を得ることが出来た。
 だいぶ長い間固まっていたらしく、優花は訝しげな表情をしている。
「どうかしたの?」
「い、いや。何でもない」
 まさか、見とれていたとは言えないので、どもりつつも答える。
「そう? それならいいかな」
 と、言うと、優花から今まであった幼い雰囲気が消え、代わりにどこか落ち着いた雰囲気に変わっていた。俺はその雰囲気に飲まれ、一言も言葉を発することが出来ない。
 優花が口を開く。
「私が清水組次期頭領、清水優花でございます。此度はこのようなところまでご足労頂き、誠に有難うございます」
 そう言って、頭を下げる。その物腰の優雅さは並のものではなかった。
「いえ、そんなことは……」
 完全に飲まれていた俺は、普段使うことのない丁寧な言葉遣いをしてしまう。
 が、彼女は気にも止めず続ける。
「清水組をよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 条件反射で答えてしまったが、はたと気づく。清水組が松尾流に頭を下げているのである。これはあり得ないことだった。なぜなら、清水組の頭領と俺の父親は犬猿の仲と言われるほど仲が悪かったからだ。
 虚を突かれた俺は、馬鹿みたいな顔をしていたのだろう、くすりと優花の笑い声が聞こえる。 だが、その笑い声はいつもの無邪気なものではなく、気品に満ちあふれていた。
 そのいつもとかけ離れた優花の様子に思わず聞く。
「本当に優花か?」
「そうだよ」
 その瞬間、いつもの優花に戻る。まさか二重人格ではあるまいかと疑ってしまうほどの早変わりである。
「二重人格じゃないよな?」
「たまに言われるけど、そんなことないよ」
 パタパタと無意味に手を振りながら答える。もしかすると、身の振り方というものを瞬間的に代えられるのかもしれないが、いつもの天然さを知っているので想像が出来ない。
 ふと、優花は気づいたように、
「お話ししたいことがありますので、どうぞ、中にいらっしゃってください。」
「ぇ、あ、はい」
 上品な言葉を使われると、どうにも断れない。
 俺は優花に続いて大きな門をくぐり抜けた。
 広い屋敷の中。俺と優花は正座で向き合っていた。
 辺りを照らすものは、縁側からの月明かりとろうそくだけだ。
 中に通されたのだから、何か長い話があるのだろうと思っていたのだが、優花は黙ったままである。ゆらゆらと揺れる明かりが優花の顔に様々に影を作り出していた。
 やがて、優花は決心したように口を開いた。
「折り入って、お願い申し上げたいことがございます」
 あの落ち着いた口調であるが、どこか揺れているような気がした。
「どのような?」
 彼女は緩やかに頭を下げながら、
「はい……。清水組と協力関係を結んでいただきたいのです」
 なかば予想していた事柄であったので、さほど驚きはしない。
 なるほど、清水組のバックに優れた技術や戦闘力を持つ松尾流がつけば、衰えた清水組の勢力は持ち直すだろう。それどころか増す可能性さえある。
 しかし――と、俺は考える。松尾流には何のメリットもない。それではそんなことをすることは出来ないのである。
 俺は当然のこととして聞く。
「何かこちらに利益になることがありますか?」
 その一言で、優花はびくりと肩を震わせ、俯いてしまった。どうやら本当にないようだ。
 それでは仕方がない。無理だ、と言う寸前、
「お願い!」
 頭を畳みにつけて優花が叫んだ。顔は見えないが、泣いているようだった。しばらくしても顔を上げようとはしない。そこにいるのはただの女の子だった。
 それを見て、俺の心の中で何かがぐるりと動く。
 一人の女の子が自分でどうやってもうまくいかなくて、「自分」に助けを求めているのである。それならば純粋に助けてあげたいたいと思った。しかし、俺の一存だけでそんなことが出来るのだろうか――
 そこで気づく、そもそもここまで来たのは、父親に言われたからであった。それに母親は、「うちの幸ちゃんをよろしくね」と言っていた。
 どうやら見越されていたようである。
 そうとなれば、答えは決まっていた。
「もちろん」
 優花がはっと顔を上げる。
 その潤んだ目を見つめ、
「もちろん、いいぞ」
 もう一度しっかりと、断言した。
「ありがとう」
 優花の顔がふにゃっと崩れて、大声を上げて泣き始めた。その頭をなでながら苦笑する。

 全く、今日はよく女の子を泣かせる日だ。
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