2016/03/23(水)松尾流「人生の歩き方」 #10




 熱い。
 頭のてっぺんから背中にかけてじりじりと焼けるような熱さだ。
 なぜだろうと俺は回っていない頭で考える。俺は、机の上に腕を組み、その上にあごを乗せているようだ。何も見えない。
 これはどうしたことだろう――
 はっと俺は顔を上げる。本能的な恐怖が背筋を走り、走馬燈のように自分の置かれた状況を思い出す。そう今は数学の時間で自分の席は窓側のでいつの間にか意識がなくなっていたということは俺は寝て……
「幸介ぇぇぇぇっ!」
 怒声。
 爆音のように轟き、教室という空間を支配する。それと同時に繰り出される白き弾丸は俺の眉間を寸分違わずロックオンしていた。
 俺は思わずその弾丸――すなわちチョーク――を受け止める。しまった、と思った時には手遅れだった。
 自分の放ったチョークを止められたことでさらにボルテージの上がった『M.K』は、1発目とは比べものにならないほどの速さでチョークを投擲していた。
 もはや、何かが飛んできていると理解することは不可能。
 次の瞬間、眉間にすさまじい衝撃となにかが粉砕する感触。

 俺が覚えていたのはそこまでだった。

 拡散していた意識が収束する。
 俺は、額の疼くような痛みで目を覚ました。思わず額に手を当てると、そこに濡れたタオルが乗っていることに気がつく。
 目を開けてみると、辺りに広がるのは白一色。
 白い天井、カーテン、シーツに枕。どうやら保健室に運ばれたらしい。
 俺が起きたことに気づいた誰かがカーテンの中に入ってくる。養護の先生だろうかと思ったが、それは佳織だった。そういえば、佳織は保健委員だったのだ。
「ん? 養護の先生は?」
「あ、うん。会議に行ってるらしいわよ」
 と言うことは、このタオルは佳織がしていてくれたのだろう。
「すまん。手間かけさせちまって」
「ほんとにそうよ。これ以上馬鹿になられたらどうするのよ」
 睨んでくる佳織が怖い。俺は何も言うことが出来ずに目をそらした。
 ちょうどその時チャイムが鳴った。外が騒がしくなったので終了の合図だろう。
 しばらくすると、がちゃりとドアの開く音がして、優花とシゲが入ってきた。
 シゲは入ってくると開口一番、
「いやぁ、よかったよかった。死んだかと思ったぜ」
 と言った。それには大いに同意する。
 今までもチョークを投げられる生徒はいたが、ここまで速かったのは初めてだった。まさか、俺の身体能力を見抜かれたのだろうか……。そう思うと、ぞくっと背筋に寒気がした。本当に彼の能力は計り知れない。
「あれから、どうなったんだ?」
「あぁ、何事もなかったかのように授業を再開したさ」
 シゲの話によると、額に直撃し粉塵と化したチョークは周囲約2メートルに飛び散ったらしい。それと同時に、俺は気絶して、机の上に授業終了まで放置されていたそうだ。
「ところで、今何時だ?」
「もう昼休みになってるよ」
 そう答えたのは優花だった。
「チョークの被害受けてないよな?」
「すこし、粉がノートにかかったくらいだから大丈夫だよ」
「ならいいんだが。でも後ろでそれだってことは、前の席の方はもっとやばかったんじゃ」
「そうよ、前の席の人なんか頭にかかっちゃって大変だったんだから。後でちゃんと謝りなさいよ」
「へいへい」
 適当に答える。あれからというもの、佳織が世話を焼いてくるようになってきた。好意を持ってくれていることはうれしいがどことなく居心地が悪い。
 強い風が開いたカーテンの隙間に吹き込み、それを揺らす。俺は意識を窓の外へ向けた。
 空は真っ青。わたあめのように白い雲がちらほらと見える。
 ぎらぎらと輝く太陽がグラウンドを灼熱地獄へと変貌させる。汗を流している野球部の部員達が哀れに思えてきた。ワシャワシャとうるさい蝉達のコーラスが聞こえてくる。
 もう7月の中旬、あと数日で夏休みである。
 今年はどんな夏休みになるのだろうか――
 そんなことを考えながらぼんやりしていたら、佳織に頭を叩かれた。
「お!? いってぇな。さっきまで気絶してたってのに」
「ふん。しゃきっとしなさい、しゃきっと。早く昼ご飯食べないといけないでしょ」
「分かったよ」
 そう言って、ふらふらと立ち上がる。まだ、ダメージが残っているのか力があまり入らない。 それを理解したのかシゲが肩を貸してくれた。
 保健室を出る。面倒な手続きは佳織がやってくれているだろう。
 クラスへの帰り際、佳織に声をかける。
「佳織、放課後話がある」

 あの一撃が良い方向に効いたのだろうか、俺の頭にはひとつの考えが浮かんでいた。

 放課後、俺と佳織は体育館裏に来ていた。
 なぜ呼び出したかと言えば、もちろん、この間の告白の決着をつけるためである。
 周囲に人気のないことを確認し、佳織に振り返る。
 佳織は俯いていて、表情を伺うことは出来ない。
「ひとつ確認しておきたいことがある」
 佳織が顔を上げる。
「俺の家がどんな仕事をしてるか知ってるよな?」
「確か、何かの道場だったわね」
 当然のように佳織が答える。
 俺は一息で言いながら、

「――はははっ」
 場違いな笑い声。
 それは佳織が発したものだった。何かに取り憑かれたかのように笑い続ける。
 それを見て、俺は、
 (まさか、狂ってしまったか?)
 と最悪の場合を考える。どうしようもなくて呆然としていると、また佳織に叩かれた。
「うぉ!?」
「本当におかしいんだから。まさか、私が知らないとでも?」
「は?」
 思考が空白で埋め尽くされた。
 瞬間、言葉の意味を理解し、その空白は全て怒りへと変換される。
「どれだけ人が悩んだと思ってんだよ!」
「そんなこと知らないわよ。勝手に悩んでただけでしょう?」
 と言って舌を出す。
「コノヤロウ。ゆるさねぇ!」
 全身から怒りのオーラを噴出させ、叫ぶ。
 が、一瞬で萎んでしまった。なぜなら、佳織がいつの間にか真剣な表情になっていたからだ。
「だから、覚悟は出来てるわ」
「ちょっと、待ってくれるかな!」
 上から透き通るような声。
 ――上から?
 直後。
 ひらりとその正体が地面に降り立つ。
 優花だ。
 彼女は何事もなかったのように俺の方に向き直ると、前向きもなく言う。
「私も幸介君が好きなの」
 やはりどこかズレている。いきなりの発言に、佳織が反応した。
「ちょっと、優花。何言ってるの?」
 優花は振り返って答える。
「私は幸介君が好きだって言っただけだよ?」
 佳織は憮然とした表情になって、
「何で、今、ここで、なのよ」
「だって、このままにしておくのはいやだったんだもん」
 それに佳織が突っかかっていき、優花も負けじと反論する。
 俺は傍観しているしかない。
 そうしているうちにも、俺のあずかり知らぬところで話は進んでいっているようだ。
「どちらかが選ばれるまで勝負よ!」
「わかったよ」
 結局、俺を取り合うという形で決着したらしい。
「俺の意見は、無視かよ……」
 そう呟いたとたん、二人はこちらにがばっと振り返り、
「「じゃぁ決めて(ください)!」」
 と、口をそろえた。鬼気迫る表情が怖すぎる。
「……いや、何でもない」

 ふと、見上げる。
 青い空のキャンバスに飛行機雲が白い直線を引いていく。
 それはグラウンドの白線に似ているが、実は全く異なるものだ。
 分けるのではなく伸びる。
 伸びていく。まっすぐに。
 今までも、選択してきた。
 そして、していくだろう。
 これからも。いつまでも。
 後悔があるかもしれない。
 が、それでも俺は信じる。
 自らの選択と、その心を。

 今までにない夏休みが来るだろう。俺はただ、この日常が続いて欲しいと願うばかりだった。

2016/02/26(金)松尾流「人生の歩き方」 #9




 ついにその時が来た。
 場所は、建設途中のままになっているビルの屋上である。
 そこまで、守りは堅くない。
 とうてい組織的な動きとは呼べない。
 やはり、内部分裂が既に始まっている。
 これと言った障害もなく、屋上にたどり着いた。
 覚悟を決める。



 俺は見た。俺の相手、清水優花を。




 しかし、俺は聞かずにいれなかった。
「何でこんなことをしたんだ?」
「だって、お父さんが倒れたら、みんながバラバラになっていくんだもん」
「それで、どうしてこんなことをすることになるんだ」
「もし、この取引が成功したとしたら、みんな帰ってきてくれるかもしれないよ」
「そんなことはない」
「どうして? 見直してくれるかもしれないよ」
「たとえそうだとしても、俺は止めないといけない」
「……」
 優花が俯く。
 が、次の瞬間。俺に向かって駆け出してくる。


 取引の時刻まで後10分。
 

「もう、やめないか」
「いやだよ」
 武器を失ってさえ、戦うことをやめようとしない。
 それを見て数瞬考え、俺は


 ――信じることにした――


 優花が滑るように向かってくる。
 対する俺は構えをとりせず、感情の籠もらない目で優花を見つめていた。
 優花の打撃が届こうとした瞬間、
 俺は薄く口元で笑った。
 そして、ついに優花の拳がとど――
「っ……!」
 ――かなかった。
優花の拳は、俺に触れるか触れないかのところで止まっていた。
 俺はその腕をそのまま引っ張り、優花を胸に抱き留める。
「え……」
 その身体は、女の子らしい柔らかさを持っていた。
 驚きの声を上げる優花を無視して、話し始める。
「俺のじいちゃんも、こういう仕事をしていたのは、知ってるだろ?」
 優花はまだ状況がつかめていないのか、きょとんとしたまま反応しない。
 気にせず、言葉を重ねる。
「そのじいちゃんが死ぬ間際にこういったんだ」
 俺は、そのころのことを脳裏に浮かべつつ、
「『自分を大事にして、自分を信じるんだ』って」
 優花が不意に俺を見上げた。
 その目には、もう先ほどまでの激情ではなく、かすかに安堵が表れていた。
「俺はこの言葉の意味を『自分の心を大切にして、自分の選択を信じろ』ということだと思っているんだ。だから、俺は君が本当にこんなことをしたくないんじゃないかと思った時、それを信じた。」
「ひどいよ……。本当は――」
 その言葉を遮るように言う。
「最初から、勝つ気なんてなかったんだろ?」
 図星を突かれてあたふたする優花。
「反省しろよ」
 その一言で、静かになる。
「……うん」
 と、かろうじて声が聞き取れた。
 会話がとぎれ、沈黙が流れる。


 ふと、優花の顔が赤くなっていることに気づいた。
「ん? 熱でもあるのか?」
「ぜ、全然そんなことないよ!」
 と、いきなりバタバタと慌て出す。
 そこにいたって、ようやく気づく。ずっと優花を抱いたままだったのだ。
 優花を腕から解放し、落ち着かせようとする。
 不意に、背後に気配。
 咄嗟に優花を背中にかばい、振り返る。
 が、相手を認めると全身から力を抜いた。
 そこにいたのは、頭の上から下まで真っ黒の服を着た二人の人間だった。その風体はまるで忍者のようである。だが、その服には現代科学技術の粋が詰め込まれたものであることを俺は知っていた。
 黒服の小さい方が言う。
「幸ちゃん。見たわよ?」
 暗闇で表情は見えないが、悪戯な笑みを浮かべているであろうことがありありと分かる。
 対して、大きい方は無言。小さい方だけが楽しそうに話す状態が続く。
「全く。幸ちゃんも隅に置けないわね。いつの間にかこんなかわいい子を捕まえてるなんて」「そんなんじゃないって」
「そう? でも、あんな風に抱いたりして、けっこう雰囲気良さそうに見えたわよ?」
 そこで、何か思いついたのか驚いたかのような表情で口に手を当てて、
「まさか、セクハラ?」
「何でそんなことになるんだ」
 即、否定する。
 どこからそんなことが思いつくのだろうか、この人にはいつも呆れさせられる。
 やっと、場の状況を理解できていたなかった優花が疑問を口にした。
「この人たちって誰かな?」
「ん? あぁ、俺の両親」
「え!」
 優花は信じられないといった表情で二人をまじまじと見ている。
「そうよ」
「でも、若そうだよ」
「フフン♪ ありがと」
 そう言う母親はうれしそうに見える。
「で、何でここにいるのさ?」
 両親はいつも世界中で仕事をしているはずで、こんなところにいるのはおかしい。
「それがね……」
 母親が答える。
「私たちは中国の怪しいグループを追っていたの。ガードが堅くて、しっぽがなかなか捕まえられなかったんだけどね。で、最近、清水組の内部混乱でこの情報が漏れてきたのよ。だから、現場を押さえに来た訳なんだけど……」
 と、言いながら頭をかいて、
「いざ来てみれば、ほとんどの守衛が倒されてるし、そのせいでグループもしっぽ巻いて逃げたみたい。ちょっとやりすぎよ」
 少し理不尽な非難される。


 「無駄骨だったわ」などと言いながら、体を伸ばしていた母親だったが、突然真剣な眼差しを優花に向ける。
「で、そちらが清水優花さんでよろしいのかしら?」
「はい」
「今回の事件はあなたが計画したこと?」
「……はい」
 どうやら、この事件の全貌を完全に把握している訳ではないが、それなりに見当がついていたのだろう。確認作業をしているという感じであった。
 大体のことを聞き終わると、母親は少し厳しい顔をして。
「あなたの気持ちも分かるけど、人に迷惑をかけちゃダメよ。それに、」
 そこで一旦区切る。
「それに、こんなことをするよりも、まず、お父さんのそばにいなさいね」
 そう言った母親は俺にも滅多に見せない優しい顔をしていた。
 と、そこで初めて父親が口を開いた。
「もう夜も遅いから、幸介。清水さんを家まで送りなさい」
 相変わらず太く通る声だと感心しながらも頷く。

 別れる時、母親がにやりと笑って、「うちの幸ちゃんをよろしくね」 と言っていたが、どう言うつもりなのだろう。





 二人で夜道を歩く。
 ある程度の距離を置いて外灯が立っているので、自分の影が前や後ろに刻々と姿を変えて伸びている。あれからというもの、二人の間には沈黙が流れ続けていた。優花が柄になく深刻そうな表情をしているのでただ単に話し出しづらいだけだ。
 と、その沈黙を破るものがあった。
「ごめんね」
 優花である。
 いきなりの謝罪の言葉であったが、しっかりと頷いて答える。
「気にするな」
「でも……」
 納得がいかないという顔をする優花。
「私のわがままで、迷惑かけちゃって、それに私の家のこと、今まで黙っててごめんね」
「気にするなって」
 優花が突然立ち止まる。
 気づいて、振り返ってみると、既に優香は泣き始めていた。
「おい!? どうかしたのか?」 
「ううん。……っく、なんでもないよ。ただ、うれしかっただけなの」
 瞳からは涙がこぼれ落ち、外灯のぼんやりとした明るさの中できらりと光った。


 優花を泣きやんだのはそれからしばらく経ってからだった。
 どういうことなのか話を聞く。
「私ね。小学生の頃、友達を家に呼んだことがあったの」
 そのころは、まだ自分の家の異質さというものに気がついていなかったのだろう。
 同じような境遇である自分なので大体の察しはつく。これ以上は、話させまい。
「だから、気にするな。俺だって、同じようなもんだから」
 大きな屋敷というものは、それだけでどこか近寄りがたい雰囲気がするのだろうか。生まれた時から住んでいる自分には分からないが、多分そんなところだろうと思っている。
 その上、ずらりと居並ぶ怖そうな男達がいるとなると、変な家だとか怖い家だとか言う印象を持たれるし、そのことを親に話したとすれば、どんなことになるかは火を見るより明らかだった。
「俺の家には佳織しか呼んだことがないかな。あんまり家のことを知られるのが嫌だったし」
 そう言って、考える。
 家が家だけに、人を呼ぶようなことは許されなかった。それに、他の奴は呼ぶような気がしなかったのだが、なぜか佳織だけは違った。
 だが、今はそんなことを考えている時ではない。
「私も早くそんな友達が欲しかったな」
「でも、いいじゃないか。もう出来たんだし」
「……そうかな」
 曖昧に答える優花だったが、その顔には紛れもないうれしさが滲み出ていた。
 いつしか、いつもの交差点のところまで来ている。
「ここからだとどのくらいなんだ?」
 何気なく聞く。
「10分ぐらいかな」
「へぇ、案外近いもんだな」
 清水組の本家があるところは、関心がある訳でもないのに地域住民に知られているようだが、それが意外に近いと言うことに少し驚きを感じた。
 日常のすぐ近くに知らないものが潜んでいると言うことは良くある。
 いつもはまっすぐ行くところを、優花が帰る道の方へ入っていく。
 が、さっきのような沈黙はない。
 冗談を交えながら、色々なことを話し続ける。こんなに楽しそうにしている優花を俺は初めて見たような気がした。いつもどこか押さえていた部分があったのだろう。
 それから家に着くまでの数分間、優花はひたすら話し続けた。

 暗闇の中に堂々と構えられた門。
 それは固く閉ざされていて、何者も通さないという意志があるかのように感じられる。左右に続いているはずの壁は闇に沈んでいて見えない。
 こここそが優花の家。もとい、清水組の本家である。
 門の前に着いたのが10分ほど前。それから、なぜか優花は俺に門の前に残るように言って、中に入ったきりだ。その間、幸介は先ほど心に引っかかったものについて考えていた。
 佳織についてである。 
 なぜなのだろう。あのころ俺は佳織をどう思っていたのだろうか。正直なところ、そのころの自分が何を考えて行動していたのかと言うことを俺は全く覚えていない。
 しかし、佳織は違うのだ。彼女はあの頃の気持ちを蘇らせ、なおかつ俺を好きだと言ってくれる。その気持ちは素直にうれしかった。
 しかし、どうしてもあのころを俺には思い出すことが出来ない。俺はどうしたらいいのだろうか。ふと、自分が過去のことしか考えていないことに気づく。今の俺がどう考えているのかを全く考えていなかった。
 しかし、あのころはまだ自分の立場というものを知らなかったのだ。それに、佳織は俺の裏の顔を知らない。
 しかし――
 逆接と逆接が繰り返される思考の中に俺は沈んでいく……。
がたり、という目の前の門から音で現実に戻された。
「おまたせ」
 門の向こう側から優花の声が聞こえる。
「ん、別に構わないが……」
 長いこと物思いに耽っていたので、うまく対処することが出来ない。
 気を取り直して聞く。
「で、何で待たせてんだ?」
 だが、門の向こうから反応はない。閂を抜く音が聞こえ、続いて音もなく門が開き始める。
 ゆっくりとした速度で開ききった門の奥には少女がいた。
 小柄な身体。顔立ちは整っていて、肌は月明かりに照らされて白磁のように白く見える。その身を包んでいるのは薄緑色の和服。それだけであるならば、さながら人形のように見えたのかもしれない。が、短く切りそろえられた輝く髪の毛が、逆に豊かな生命感を感じさせる。
 そこまできてやっとその少女が優花であると言う実感を得ることが出来た。
 だいぶ長い間固まっていたらしく、優花は訝しげな表情をしている。
「どうかしたの?」
「い、いや。何でもない」
 まさか、見とれていたとは言えないので、どもりつつも答える。
「そう? それならいいかな」
 と、言うと、優花から今まであった幼い雰囲気が消え、代わりにどこか落ち着いた雰囲気に変わっていた。俺はその雰囲気に飲まれ、一言も言葉を発することが出来ない。
 優花が口を開く。
「私が清水組次期頭領、清水優花でございます。此度はこのようなところまでご足労頂き、誠に有難うございます」
 そう言って、頭を下げる。その物腰の優雅さは並のものではなかった。
「いえ、そんなことは……」
 完全に飲まれていた俺は、普段使うことのない丁寧な言葉遣いをしてしまう。
 が、彼女は気にも止めず続ける。
「清水組をよろしくお願いいたします」
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 条件反射で答えてしまったが、はたと気づく。清水組が松尾流に頭を下げているのである。これはあり得ないことだった。なぜなら、清水組の頭領と俺の父親は犬猿の仲と言われるほど仲が悪かったからだ。
 虚を突かれた俺は、馬鹿みたいな顔をしていたのだろう、くすりと優花の笑い声が聞こえる。 だが、その笑い声はいつもの無邪気なものではなく、気品に満ちあふれていた。
 そのいつもとかけ離れた優花の様子に思わず聞く。
「本当に優花か?」
「そうだよ」
 その瞬間、いつもの優花に戻る。まさか二重人格ではあるまいかと疑ってしまうほどの早変わりである。
「二重人格じゃないよな?」
「たまに言われるけど、そんなことないよ」
 パタパタと無意味に手を振りながら答える。もしかすると、身の振り方というものを瞬間的に代えられるのかもしれないが、いつもの天然さを知っているので想像が出来ない。
 ふと、優花は気づいたように、
「お話ししたいことがありますので、どうぞ、中にいらっしゃってください。」
「ぇ、あ、はい」
 上品な言葉を使われると、どうにも断れない。
 俺は優花に続いて大きな門をくぐり抜けた。
 広い屋敷の中。俺と優花は正座で向き合っていた。
 辺りを照らすものは、縁側からの月明かりとろうそくだけだ。
 中に通されたのだから、何か長い話があるのだろうと思っていたのだが、優花は黙ったままである。ゆらゆらと揺れる明かりが優花の顔に様々に影を作り出していた。
 やがて、優花は決心したように口を開いた。
「折り入って、お願い申し上げたいことがございます」
 あの落ち着いた口調であるが、どこか揺れているような気がした。
「どのような?」
 彼女は緩やかに頭を下げながら、
「はい……。清水組と協力関係を結んでいただきたいのです」
 なかば予想していた事柄であったので、さほど驚きはしない。
 なるほど、清水組のバックに優れた技術や戦闘力を持つ松尾流がつけば、衰えた清水組の勢力は持ち直すだろう。それどころか増す可能性さえある。
 しかし――と、俺は考える。松尾流には何のメリットもない。それではそんなことをすることは出来ないのである。
 俺は当然のこととして聞く。
「何かこちらに利益になることがありますか?」
 その一言で、優花はびくりと肩を震わせ、俯いてしまった。どうやら本当にないようだ。
 それでは仕方がない。無理だ、と言う寸前、
「お願い!」
 頭を畳みにつけて優花が叫んだ。顔は見えないが、泣いているようだった。しばらくしても顔を上げようとはしない。そこにいるのはただの女の子だった。
 それを見て、俺の心の中で何かがぐるりと動く。
 一人の女の子が自分でどうやってもうまくいかなくて、「自分」に助けを求めているのである。それならば純粋に助けてあげたいたいと思った。しかし、俺の一存だけでそんなことが出来るのだろうか――
 そこで気づく、そもそもここまで来たのは、父親に言われたからであった。それに母親は、「うちの幸ちゃんをよろしくね」と言っていた。
 どうやら見越されていたようである。
 そうとなれば、答えは決まっていた。
「もちろん」
 優花がはっと顔を上げる。
 その潤んだ目を見つめ、
「もちろん、いいぞ」
 もう一度しっかりと、断言した。
「ありがとう」
 優花の顔がふにゃっと崩れて、大声を上げて泣き始めた。その頭をなでながら苦笑する。

 全く、今日はよく女の子を泣かせる日だ。

2016/01/09(土)松尾流「人生の歩き方」 #8




 ついに中間テストが終わった。
 しかし、あの一件以来、佳織の様子が少しおかしい気がする。


「よっしゃー! 今日で中間も終わりかぁ!」
 無意味に湧き起こる達成感に叫ぶ。
「そうだねー」
 後ろからも、暢気な声が上がる。
「ちゃんと出来たの?」
 佳織が冷静な質問をしてくる。
 が、もちろん気にしない。
「よし、どこかみんなで遊びに行こうぜ!」
 シゲが提案する。
「もち!」
「行きたいな」
 佳織の反応がない。
「佳織は行かないのか?」
「ん、あぁ、行くわよ」
 まるで、今まで聞いていなかったようである。
「風邪でもひいたか?」
「ひいてないわよ」
 その表情を見て、安心する。
「じゃぁ、今日は、ぱーっ行こう!」




 結局、流れとしては、ボウリングを2ゲームして、その後、カラオケをしようと言うことになった。
 まずはボウリング。
 シゲは、ボールを蹴ったり投げたりするのは得意だが、転がすのは得意ではない。
 一方、優花は、この間のリベンジだと勢い込んでいたが、力みすぎたのか、結局ボロボロであった。
 佳織は相変わらず苦手であるが、どことなく身が入っていない感じがする。
 カラオケになると、佳織のテンションの低さがはっきりと出てしまった。
 歌を歌うこともしないし、ノリが悪すぎる。
 さっさと切り上げて、解散することになった。




 解散した後、俺は明らかにいつもと違う佳織の様子が心配になり近くの公園まで連れて行って聞いてみることにした。
「佳織。どうしたんだ? 何かあったのか?」
 努めて柔らかい口調で聞いてみる。
「……」
 だが、ただ俯いているばかりで、何も言おうとしない。
「俺はおまえが心配なんだよ。黙ってるだけじゃ分からないじゃないか」
 何も言わない佳織に腹が立って、思わず口調が荒くなる。
 その声に、彼女の肩がびくりと震えた。
 数秒の間。
 口が小さく動く。
「お……ら……ない」
 声が小さすぎて、ほとんど聞こえない、
 だが次の瞬間、彼女は顔を上げて叫んだ。
「思い出しちゃったんだから仕方ないじゃない!」
 涙目である。
 俺は一瞬、トラウマになっていることを思い出したのかと思った。
 しかし、それは次に続く言葉で打ち消された。
「私はあなたのことが好きなのよ!」
 突然の告白に、頭が反応しきれない。
 思考が空回りして、完全にフリーズしてしまっている。
 何とか、我を取り戻して、出た言葉は、
「どうして?」
「実は、小学校の頃から、好きだったわ。でも、いつの間にか、幼なじみという枠の中にとらわれてしまって、その気持ちを封じこめてしまっていたの」
 そう言うと、彼女は俺の右手を両手で包み込み、
「でも、この間、一緒に帰った時に、思い出したのよ」
 一呼吸。
「あなたがやっぱり好きだってことを」
 もう疑いようがなかった。
 しかし、何にせよ。突然すぎる。
「ちょっと待った。落ち着いてくれ」
 どうしようか迷ったあげく。
「俺は、すぐには返事できないよ。今まで、そんな風に考えたことはなかったから」
「うん。待つから」
 あれだけ取り乱していたと言うのに、その言葉には全く揺るぎがない。逆に全てはき出してすっきりしたという感じだった。
 この辺りが芯が強くて切り替えが早い性格の現われなのだろうか。
 その後、俺は彼女を家まで送り、ぐるぐる回る思考のまま家に帰り着いた。

2015/12/22(火)松尾流「人生の歩き方」 #7




 夜。
 屋敷の中は締め切ると完全な闇と化す。
 俺は実戦に向けての稽古を始めていた。
 5対1まではこちらの方に分がある。
 暗闇の中で、いかに相手の動きを把握し、対処していくか。
 それがいま必要としていることなのだ。




 今回の仕事は、『怪しい取引の阻止』。
 清水組が主動で行おうとしているらしい。
 今まで、清水組は地域のゴロツキどもの元締めとして存在しており、そのようなことをしたことはなかった。
 内部混乱が起こっているのかもしれない。
 今までいたカリスマ的な主導者が倒れると、一気に混乱が広がっていくのはいつの時代も同じである。
 これもその結果のひとつの可能性がある。
 俺はそう思うことにした。


 辺りの空気の流れや音に集中し、ひとつも聞き逃さないようにする。


 あと数日、俺は自らの力を最大限引き出すため、より一層稽古に励んでいた。

2015/12/17(木)松尾流「人生の歩き方」 #6




 暦は6月になっていた。
 雨の季節。
 空をいくら睨んでも、灰色く分厚い雲が晴れるような様子はない。
「あぁ、今日も体育はバスケか……」
 シゲがいい加減うんざりしたのか、意味のない文句を言っている。
 雨が降るとグラウンドはもちろん使えないので体育館の中で授業が行われる。
 必然的に、男子はバスケ、女子はバレーと決まっているもので、連日雨が続くと、バスケばかりになってしまうのだ。適当に慰めておく。
「まぁ、そう言うなって」
 シゲは、飽きっぽいところがあるので、ひとつの部に入ろうとしない。




 体育の時間。
 体育館を半分に区切って分かれる。
 それにしても、シゲはバスケにしろサッカーにしろ、うまい。
 並の部員よりも強いぐらいである。
 俺のパスを受けたシゲが、3ポイントを決める。
 ふと、佳織と優花が気になったので、そちらの方を見てみる。
 佳織は……。まぁ、普通と言うところだろう。飛んできたボールを受けるぐらいのことは出来ているようだ。
 しかし、問題なのは優花の動きである。
 あの小柄な体で、良くあそこまで動き回ることが出来るものだ。
 背の高さが足りないのでスパイクをすることは出来ないが、それでも、皆を驚かせるほどの動きはしている。
 優花の運動神経の良さを改めて感じた瞬間だった。




 そろそろ、中間テストである。
 俺と佳織は、試験範囲の復習を学校で居残ってしていた。
「あぁ、全く。面倒だな」
 集中力がついにとぎれてしまった。一人で呟いていも空しいだけなので、佳織の方を見る。
 こちらが見ていることに気がついていないようだ。たいした集中力である。
「そろそろ帰らないか?」
「あ、いいわよ」
 今までの様子が嘘のように、さっさと机の上のものを片付け始める。
 切り替えが早いのが佳織のいいところではある。
「今さっきは何をしてたんだ?」
 二人分の足音しかしない廊下を歩くきながら言う。
「数学よ。今回の範囲、かなり難しくてきちんと分かってないところがあったから」
「確かに、最近、いきなり難しくなったよな」
 うちのクラスの数学はもちろん『M.K』が受け持っている。
 彼は通常時でも大声で授業するのだが、気持ちが入ったりするとさらに大声になる。
 向かいの校舎であっても聞こえてくるほどである。
「ところで、おまえ傘ちゃんと持ってるのか?」
「それはもちろん持って……」
 固まる。
「忘れたのか……」
「どうしよう……」
 俯く佳織。
 こういう時は置き傘を拝借するに限る。俺は下駄箱のすぐそばにある傘立てを指さして、
「傘立ての傘借りていけばいいじゃないか。どうせ、この時間だからここにあるのはあまりだろ?」
 とたんに佳織は苦々しい顔をして、
「そんなこと出来るわけないじゃない。」
 そう言われると、困ったことになる。
 佳織はどこか芯の強いところがあるので、こういうモラルに関することには厳しいのだ。
「そうすると、俺の傘しかないけど、どうするんだ?」
 悪戯をしている子供のような気持ちで、言う。
「俺の傘に入ってもいいんだぞ?」
 俺の予想では、反論してくると思っていたのだが、その予想は裏切られた。
「……仕方ないわね」
 聞こえてきたのは、やっとのことで出したような声だった。
 とても恥ずかしそうにしている。
 予想外のことに、面食らってしまった俺は、
「いいから、帰るぞ」
 と、やや強引な感じになってしまった。


 二人で一緒の傘を使って帰る。
 お互いに妙に意識してしまって、沈黙が二人の間を流れていた。
 ただ黙々と歩き続ける。
 思うことは色々とあったが、一言でも喋ると、どうにかなってしまいそうな気がした。
 そうこうしているうちに、いつもの交差点まで来てしまっていた。
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