2015/08/26(水)松尾流「人生の歩き方」 #3




 夜。
 月明かりに照らされて、四角形が浮かび上がっている。
 塀だ。
 その四角形の中に、瓦屋根の建物が並んでいた。
 屋敷のようである。
 辺りには林があって、黒くしか見えない。
 その屋敷から、時折、声が聞こえてくる。
 かけ声。
 一人の青年が、声を張り上げて稽古か何かをしている。
 上半身は裸で、良く鍛えられていると言うことが見ただけで分かる。
 その動きは、空手のようにも見えるし、太極拳のようにも見えた。
この青年こそが、松尾幸介である。
「よし。今日はこれぐらいでいいだろう」
 その体は汗でびしょびしょである。
 5月とはいえ、まだ夜は冷え込んで肌寒くなる。しかし、松尾にそんなことは関係がなさそうであった。
 彼が稽古していたもの。それは「松尾流」と言うものである。「松尾流」は、松尾家に代々受け継がれている流派で、大昔は一子相伝のようなものであったらしい。
 しかし、何代目かの頭首の時に、体術だけではなく他のものも、と言って、馬術や剣術、呪術なども吸収していき。いつの間にか、一子相伝では伝えられなくなってしまった。
 そのため、今では蔵書が入った倉を開ける方法をまず教え、その後、その蔵書から自ら学んでいくという手法をとるようになったのである。
 とりわけ、松尾が得意としているのは体術で、それ以外はいくつか術が使える程度だ。
 代々受け継がれてきたものであるから、体術でなくとも出来たのだが、体術を中心にしているのは、祖父の影響である。
 元々、「松尾流」というのは、世の中の裏の仕事をしていたのだ。それは今になっても変わらない。
 祖父は、裏の世界では名の知れた暗殺者だったそうだ。
 だが、それと祖父への憧れとは直接には関係しない。


 話は幸介が4歳の頃に戻る。








 夕方。
 今日も林の向こうに太陽が沈もうとしていた。
 辺り一帯が夕闇に染まる頃、祖父が塀を跳び越えて帰ってきた。祖父は門から入ってくるよりも塀から入る方が好きらしかった。
「あ、おじいちゃん」
「今帰ったぞ」
 そう言う祖父は、別に仕事から帰ってきた訳ではない。むしろ、そういう仕事は1年に数回ぐらいなものであって、普段は農家をしていたりする。
 両親は外国で流派の力を使ってばりばり働いているらしい。
「ねぇねぇ。今日もおすもうしようよ!」
 このころの俺は、祖父と相撲するのが好きで、夜になると決まって相撲をしていた。
「あぁ、でも、まずは晩飯を食べてからだ」
「うん、わかった!」
 と、無邪気に笑って、晩ご飯を食べに向かった。




 晩飯を食べ終わった後、相撲をするのは中庭である。
「もういっかい!」
「いいぞ」
 もちろん、4歳の俺がかなう訳がないのだが、それでも俺は飽きもせずに立ち向かう。
 1時間ほどするとさすがに疲れてしまった。
「うーん。やっぱり勝てないや」
 地面に寝転がりながら言う。
「そりゃそうさ。まだまだ、ワシに勝つには10年早い」
 自慢げに歯を見せて笑いかけてくる。
「10年したら勝てるようになるかな」
「そりゃ、おまえのがんばり次第だぞ。幸介」
「がんばるって、どんなふうに?」
「そうだな……」
 祖父は数秒考え込んで、
「よし。今日からワシが毎晩、体術の手本を見せてやる。ちゃんと見て覚えるんだ」
 そう言うと、祖父は体術の基本の型を始める。
 その動きはとても速くて、俺には見えなかった。
「おじいちゃん! 速すぎて見えないよ」
「ん、そうか。すまん」
 祖父のスピードが若干下がる。それでも、ぎりぎり見える程度。
 その動きは、まるで腕や足に命が宿ったかのようである。
 一通り終わって、祖父が話しかけてきた。
「どうだ。すごいだろ」
 まるで子供のような笑みを見せる。俺は祖父のこの顔が好きだった。




 それから毎晩、祖父は相撲が終わってから、体術の型を見せてくれるようになった。
 俺は元々素質があったので、どんどん覚えていった。そして、それを見せると、祖父はあの笑顔を見せてくれた。
 しかし、それと同時に、祖父は第一線を退いた。
 もう、先が長くないのに気づいていたのかもしれない。
 祖父が亡くなったのはそれから1年後のことだった。




 俺は、その時も、祖父の枕元にいた。
 なぜか連絡をした訳でもないのに、両親が帰ってきていた。
「幸介……」
 うっすらと目を開けて、祖父が呼んでくる。
 俺は息を吸う音さえ聞き逃すまいと、そばにに近づいた。
 これが最後だろうと、心のどこかで分かっていた。
「自分を大事にして、自分を信じるんだ」
 その言葉は最期だというのに、部屋中に響き渡るほどの大きな声だった。
 そして、祖父はその言葉を最後に、目を閉じ、二度と開くことはなかった。
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